悪魔の囁き、その14。真奈美ちゃん。

’女優の岡江さんがなくなったんだってな’

いきなり現れた悪魔がブスッとした表情でつぶやいた。

なんだ悪魔の奴、岡江さんが好きだったんかねぇ。
いやいや、あれだけ綺麗で聡明な方だったから、
オイラも大好きだったので、
ニュースが流れた時には
ほんと、びっくりしたよ。
残念だなぁ。

などと悪魔を慰めるようにいうと、

’しょうがないよ、彼女は乳がんだったからね。
免疫も弱っていたから
コロナの勢いにやられてしまったんだよね。
でも本当に残念だよ。’

悪魔の奴、悪魔にふさわしくない
淋しそうな表情でいうものだから、
話題を変えようと思って
あれこれと考えているんだけれど、
なかなかいい話が思いつかない。

おまけに岡江さんの連想で、
常連の真奈美ちゃんのことを思い出して、
こっちまで暗くなってきたよ。

真奈美ちゃんはうちの店の大事なご常連で、
実は乳がんを患っていた。
知り合った頃はステージⅡぐらいだったので、
大丈夫、まだまだ頑張れるよ、
などと励ましていたのだけれど、
そのうちにステージⅢに移行して、
あちこちに転移が始まった。

うちの店にはお医者さんのご常連が多いので、
乳がんのステージⅢって、どうでしょう?
まだまだ大丈夫ですよね?
などと伺ってみても、
残念ながらどの先生の表情も暗かった。

なかなか進行が止まってくれず、
今年の3月の初めにはもうステージⅣだったので、
死期を覚悟していたのか、

『あたしはもうダメかもね、
でも、もう一度釣りに行きたいよ』

などとせがむようにいうので、
真奈美ちゃんでも行けそうな場所を
幾つか候補にあげて、
店から車で2時間ぐらいのところにある
馴染みの管理釣り場に行くことにした。
遠方の管理釣り場だと長距離ドライブになって、
彼女の負担が大きくなるといけないからね、
近場に優秀な管理釣り場があって助かったよと、
ちょっとホッとした。

オイラ達がやっているフライフィッシングでは、
春先のこの季節には、
渓流でアマゴやイワナを狙うのだけれど、
真奈美ちゃんの体力では、
もう普通の渓流釣りは無理だった。
管理釣り場なら平坦な場所ばかりだから、
体力がなくても大丈夫だし、
車いすの方でもできるほどに安全だ。
それに山奥の渓流に行くわけでもないから、
容態が急変しても、
すぐに帰ってくることもできる。

そこで、タイミングを見計らって、
3月の中旬の晴れた日に、
真奈美ちゃんをオイラの車に乗せて、
馴染みの管理釣り場に行った。

一般的に、管理釣り場は、
ちょっと山の中に入った場所にあることが多い。
この日に行った管理釣り場も、
周辺は小高い山に囲まれていて、
ハイカーも多いので、
雰囲気がとても良いところだ。

久し振りの魚釣りで、
真奈美ちゃんも嬉しそうだ。
この日ばかりは病気のことを忘れて、
おもいっきり楽しんでもらおう。

幸いこの日は魚たちの反応が良く、
オイラが巻いたウーリーバッガーに、
(フライフィッシングで使う代表的なフライの名前)
綺麗なニジマスが何度も飛びついてくれたので、
釣れるたびに真奈美ちゃんと大はしゃぎ。
おいおい、病人がそんなにはしゃいで大丈夫かよと、
こちらが心配になるくらいはしゃぎまくって、
楽しんでくれた。

充分に釣れたので、
帰ることにして、
道具を車に詰め込んで、
もと来た道をゆっくりと走り出す。
彼女の体に障らないように、
慎重に行かなくてはと、
自分に言い聞かすように安全運転を心掛けた。

陽が落ちて暗くなった夜道を走っていると、
はしゃぎ過ぎて眠っていたはずの真奈美ちゃんが、
急にこっちを向いて何か言いたそうにした。

『今日はとても楽しかったよ、
ありがとうございました。
でもね、あたしはもうダメだよ、
きっと今年の桜は、
見られないかもしれない』

真奈美ちゃんが急に気弱なことを言い出したので、

なぁに真奈美ちゃんならきっと大丈夫だよ、
それにね、いいお守りがあるから、
これをつけるといいよ。
そういってオイラは、
手作りのイヤリングを渡した。

実はオイラの店でも、
ハンドメイドのアクセサリーの材料を買いに来られる
お嬢さんたちが何人かおられる。

ハンドメイドのアクセサリーはとても流行っていて、
材料の鳥の羽を入手するのに、
オイラの店のマテリアルは
ちょうど良いらしい。

そんなお嬢さんたちに触発されて、
オイラもいくつか
ハンドメイドのイヤリングやピアスを作ってみた。

季節にあわせて、
ウーリーバッガーをピンクにアレンジして
作っておいたイヤリング、
いまならきっとお役に立つかも。

ウーリーバッガーはね、
星の数ほどあるフライの中で、
一番強い力があるんだよ。
これは桜をイメージしてピンクで巻いたけれど、
これをつけておけば、
ウーリバッガーの強い力を身にまとうことができる。
今年の桜もきっと見ることができるよ。

そう言って真奈美ちゃんの手に、
手作りのイヤリングをそっと乗せた。

『へぇ、可愛いね。気に入ったよ、ありがとう』
そういって真奈美ちゃんは、
嬉しそうにそのイヤリングを眺めていた。
ただ疲れていたのか反応はそれだけで、
しばらく車内は話題もなく、
時間がゆっくりと過ぎていった。

また眠ったのかなと真奈美ちゃんの方を見ると、
ちゃんと目は明いているが、
なんだか想いつめた表情をしている。

ウーリーバッガー、あまり気にいらなかったのかな。
ちょっと心配になったが、
何かいって静寂を破る気にもなれず、
そのまま黙って運転を続けていると、

やがて真奈美ちゃんは重い口を開いて、
絞り出すようにこういった。

『あたしを抱いてくれませんか?』

エェッ、抱くっていったいどういうこと?
夜になってちょっと寒くなってきたから、
抱っこしてやればいいのかな?
それとも…

突然のことで頭が回らないオイラを無視して、
真奈美ちゃんは続けてこういった。

『あたしはもうすぐ30歳になるの。
でもこの年になっても彼氏の一人もいないのよ。
大学を出てからすぐに働き始めたのだけれど、
両親が二人ともガンでね。
看病に追われる毎日で彼氏を作る暇もなかったの。』

続けて真奈美ちゃんは、
誰でもいいから想いをぶつけるようにこう言った。

『うちは癌の家系で両親は二人とも旅立った。
だから、たぶんあたしもダメだと思う。
でも、このまま、男を知らずに死んでいくなんて、
本当に残念だわ。
ぜひアタシを女にしてください。』

ここまでいうと真奈美ちゃんは、
自分の言ったことにびっくりしたのか、
そのまま押し黙ってしまった。

さて、どうしたものか?
オイラも男だから、
女の子から誘われてイヤとはいえない。

でも60過ぎのこんなジジィが、
真奈美ちゃんの初めての男では彼女が気の毒だ。
それにひょっとして、
後で怖い男が出て来ても困るし…

いろんなことが頭をよぎる。
さて、どうしよう?

そっと助手席のみなみちゃんの様子を伺うと、
返事を待っているそぶりだ。

しょうがない、ここで逃げてはいけない。
彼女に恥をかかせてもいけないので、
パッと脳裏に閃いた言葉を口にした。

ねぇ、真奈美ちゃん。
とりあえず桜の季節まで頑張って、
桜が咲いたら花見に行こうぜ。
花見に行って綺麗な桜を見ることができたら、
その時には…。

そういうと真奈美ちゃんは安心したのか、
そのまますやすやと眠ってしまった。
よほど疲れていたのだろう。

’でその後はどうなったんだ?’

オイラが回想を終えるのを待っていたかのように
悪魔がつっこんできた。

うん、それがね…

(続きます)

◎悪魔の囁き、目次はこちら

-お断り-
この話はすべてフィクションで、
たまたま見た夢を綴っただけのことです。
外出をオススメしているわけではありませんので、
念のため。
なお、この物語は当分の間、続きますが、
すべて実在の人物、会社、組織とは関係ありません。
どうぞご承知おき下さい。