悪魔の囁き、その16。不屈の釣り人。

翌日、いそいそと現れた悪魔は嬉しそうにこういった。

’昨夜はいきなり消えて悪かった、
とよさんの様子が気になってね。
ちょっと見てきたよ’

見てきたって悪魔の奴、
簡単に他所んちに入り込めるのかね、
と訝っていると、

オイラのびっくりした表情に応えるように、

’悪魔をなめてもらっちゃ困る。
悪魔は簡単に他所の家に入り込めるんだよ。
家族の服にくっついたり、
新聞についたり、
買い物の中身や配達の荷物について、
家の中に入ることもできるんだぜ’

ちょっと得意げな顔をして悪魔が言ってきた。

’昨日は、ちょうど朝刊の配達時間に間に合ったから、
そのまま家の中に滑り込んで、
とよさんの様子をうかがってきたよ’

そうか、それで彼は大丈夫だったかい?

’あぁ、大丈夫だったよ’

悪魔が嬉しそうに叫んだ。

’真奈美ちゃんは残念だけれど、
愛用のロッドが届いたということは、
もう旅立ってしまったかも知れないね。
本当にお気の毒だよ。’

’でもオヤジのお客さんで、
ガンでも負けずに釣りに行く人とか、
あるいは、ガンを克服してもう一度、
釣り場に立つことが
できるようになった方もいるだろう、
とよさんのようにさ。’

’だからね、気になってとよさんの様子を伺ってきたんだよ。
ピンピンしていたからちょっと一安心だ。’

悪魔が満面の笑みを浮かべて言うのに促されるように、
オイラもとよさんの優しい顔を思い出していた。

とよさんはもう20年近く、
うちに来て下さっている。
開店当初からの常連の一人だ。

とよさんはいつも優しい笑顔で来られるので、
とてもそうとは思えなかったのだけれど、
実は何年か前にスキルス性の胃がんを患っていて、
胃を全摘されている。

その時に、
もう一度釣りに行きたいので、
何が何でも直って見せると、
強い意志を心の中で育てたそうだ。

闘病生活は凄絶を極めたけれど、
全滴した胃をなだめつつ、
(胃は取っちゃったからどうしたのかな?)
食べることに全勢力を費やして、
やがて食べ物を少しづつ消化できるまでに
こぎつけたそうだ。

こうなったらしめたもので、
その後は医者も驚くほどの回復力をみせ、
手術の翌シーズンには渓流に立っていた。
そうおっしゃっておられていたから、
釣りに賭ける情熱は凄まじいものが
あったのだろう。
ご立派だ。

ガンに負けない方はまだまだおられる。

ご常連の西さんは肺がんで、
残念なことにあちこち転移している。

けれど絶対に諦めずに釣り場通いを続けていて、
肺なのでたまに呼吸が続かず、
立っていられないほど酷いときもあるが、
そんな時でも車イスに乗って、
管理釣り場に行って魚をご覧になる。
それだけでも心が癒される。
そう仰っておられた。

そのくらいの強い気持ちがあれば、
きっと生き残れるのだろうけれど、
真奈美ちゃんにとよさんのことを
教えてあげれば良かったよ。

悪魔にポツリというと、
悪魔も寂しそうに微笑んだ。

たぶん悪魔の奴、
真奈美ちゃんがどうなったのか
知っているんだろうな。

オイラには言わないけどね。

◎悪魔の囁き、目次はこちら

-お断り-
この話はすべてフィクションで、
たまたま見た夢を綴っただけのことです。
外出をオススメしているわけではありませんので、
念のため。
なお、この物語は当分の間、続きますが、
すべて実在の人物、会社、組織とは関係ありません。
どうぞご承知おき下さい。




悪魔の囁き、その15。真奈美ちゃん、その2。

’でその後はどうなったんだ?’

オイラが回想を終えるのを待っていたかのように
悪魔がつっこんできた。

実はね、一緒に管理釣り場に行ったのは、
3月の初め頃のことだ。
その頃はまだ連絡が取れてね。

医者から免疫が弱っていて、
コロナに気をつけるようにいわれているので、
ヘルパーさんに全部まかせて、
あたしは家の中でじっとしていると言っていた。

けれども、その後はもう連絡が
取れなくなってしまった。
心配で、3回ほどメールを打ったのだけれど、
まったく返信がない。

最後のメールの文面はね、

『あたしはもう力が入らなくなってきているよ。
吐血もたまにするから駄目だろう。』

と終わっていたよ。
すぐに励ましのメールを打ったんだけど、
返事がなかったよ。

それ以降は全然、連絡が取れなくて、
もう桜の季節も過ぎてしまったからね、
桜も見れなかったかもしれない。

’そうか、じゃぁ、管理釣り場の帰り道の約束は、
果たせなかったわけだ’

あぁ、そんな約束をしたんけれど、
果たせなくてちょっと残念なような、
一安心のような複雑な心境だったのだけれど…。

’だったって、どういうことよ。ひょっとして真奈美ちゃん…’

あぁ実はね、彼女のヘルパーを名乗る方から荷物が届いてね、
中をあけると6ピースのフライロッドが入っていたよ。

今の時代には、
フライロッドは4本つなぎの
4ピースが多いけれど、
持ち運びに便利なように
6本つなぎの6ピースもあるんだよ。
女性のアングラーは車がないので、
バスや電車で釣りに行く人も多いから、
短くたためて携帯に便利な、
6ピースロッドを使うことが多いんだね。

おまけにそのロッドは、
握りのコルクの部分を細く削ってあってね、
真奈美ちゃんは手が小さかったから、
削ってあげた覚えがあるんだ。

’ということは、それは真奈美ちゃんのロッドっていうことか。
ということは、真奈美ちゃんはひょっとして…’

いや、まだわからない、入院しているだけかもしれないし、
旅立った証拠なんてこれだけじゃわからないからね。

でもね、
抗がん剤の影響で免疫が弱っていたから、
たとえ家の中でじっとしてマスクをしていても、
まんまとコロナに乗り移られたかもしれないし…

ここまでいうと悪魔の奴、急にシュンとしてこういった。

’確かにコロナはどんなに厳重予防しても、
必ず家の中に入り込めるよ。
ただ、入られたとしても、
健康な人なら症状が出ないか、
ちょっとの症状で終わる。
オヤジもいつか、急に37.5度の熱が出て、
それがすぐに収まったことがあっただろう。
あの時はコロナじゃなかったかもしれないが、
何かのウィルスに入られたことは間違いない。
でも1時間ぐらい寝ていたら、
すぐに36.5度に下がったじゃないか。
健康な人ならそんな感じですぐに収まっちゃうんだよ、
新しい免疫を獲得してね。’

おや悪魔の奴、いつの間にかオイラのことを
オヤジと呼んでやがる。
まぁいいか、どうせオレは釣り道具屋のオヤジだ。
なんて呼んでもらっても構わない。
常連からはオヤジと呼ばれているし。

’でも、真奈美ちゃんのように免疫が落ちている人はひょっとして…’

ここまでいうと悪魔は用事でもあったのか、
いきなり姿を消した。

(続きます)

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-お断り-
この話はすべてフィクションで、
たまたま見た夢を綴っただけのことです。
外出をオススメしているわけではありませんので、
念のため。
なお、この物語は当分の間、続きますが、
すべて実在の人物、会社、組織とは関係ありません。
どうぞご承知おき下さい。




悪魔の囁き、その14。真奈美ちゃん。

’女優の岡江さんがなくなったんだってな’

いきなり現れた悪魔がブスッとした表情でつぶやいた。

なんだ悪魔の奴、岡江さんが好きだったんかねぇ。
いやいや、あれだけ綺麗で聡明な方だったから、
オイラも大好きだったので、
ニュースが流れた時には
ほんと、びっくりしたよ。
残念だなぁ。

などと悪魔を慰めるようにいうと、

’しょうがないよ、彼女は乳がんだったからね。
免疫も弱っていたから
コロナの勢いにやられてしまったんだよね。
でも本当に残念だよ。’

悪魔の奴、悪魔にふさわしくない
淋しそうな表情でいうものだから、
話題を変えようと思って
あれこれと考えているんだけれど、
なかなかいい話が思いつかない。

おまけに岡江さんの連想で、
常連の真奈美ちゃんのことを思い出して、
こっちまで暗くなってきたよ。

真奈美ちゃんはうちの店の大事なご常連で、
実は乳がんを患っていた。
知り合った頃はステージⅡぐらいだったので、
大丈夫、まだまだ頑張れるよ、
などと励ましていたのだけれど、
そのうちにステージⅢに移行して、
あちこちに転移が始まった。

うちの店にはお医者さんのご常連が多いので、
乳がんのステージⅢって、どうでしょう?
まだまだ大丈夫ですよね?
などと伺ってみても、
残念ながらどの先生の表情も暗かった。

なかなか進行が止まってくれず、
今年の3月の初めにはもうステージⅣだったので、
死期を覚悟していたのか、

『あたしはもうダメかもね、
でも、もう一度釣りに行きたいよ』

などとせがむようにいうので、
真奈美ちゃんでも行けそうな場所を
幾つか候補にあげて、
店から車で2時間ぐらいのところにある
馴染みの管理釣り場に行くことにした。
遠方の管理釣り場だと長距離ドライブになって、
彼女の負担が大きくなるといけないからね、
近場に優秀な管理釣り場があって助かったよと、
ちょっとホッとした。

オイラ達がやっているフライフィッシングでは、
春先のこの季節には、
渓流でアマゴやイワナを狙うのだけれど、
真奈美ちゃんの体力では、
もう普通の渓流釣りは無理だった。
管理釣り場なら平坦な場所ばかりだから、
体力がなくても大丈夫だし、
車いすの方でもできるほどに安全だ。
それに山奥の渓流に行くわけでもないから、
容態が急変しても、
すぐに帰ってくることもできる。

そこで、タイミングを見計らって、
3月の中旬の晴れた日に、
真奈美ちゃんをオイラの車に乗せて、
馴染みの管理釣り場に行った。

一般的に、管理釣り場は、
ちょっと山の中に入った場所にあることが多い。
この日に行った管理釣り場も、
周辺は小高い山に囲まれていて、
ハイカーも多いので、
雰囲気がとても良いところだ。

久し振りの魚釣りで、
真奈美ちゃんも嬉しそうだ。
この日ばかりは病気のことを忘れて、
おもいっきり楽しんでもらおう。

幸いこの日は魚たちの反応が良く、
オイラが巻いたウーリーバッガーに、
(フライフィッシングで使う代表的なフライの名前)
綺麗なニジマスが何度も飛びついてくれたので、
釣れるたびに真奈美ちゃんと大はしゃぎ。
おいおい、病人がそんなにはしゃいで大丈夫かよと、
こちらが心配になるくらいはしゃぎまくって、
楽しんでくれた。

充分に釣れたので、
帰ることにして、
道具を車に詰め込んで、
もと来た道をゆっくりと走り出す。
彼女の体に障らないように、
慎重に行かなくてはと、
自分に言い聞かすように安全運転を心掛けた。

陽が落ちて暗くなった夜道を走っていると、
はしゃぎ過ぎて眠っていたはずの真奈美ちゃんが、
急にこっちを向いて何か言いたそうにした。

『今日はとても楽しかったよ、
ありがとうございました。
でもね、あたしはもうダメだよ、
きっと今年の桜は、
見られないかもしれない』

真奈美ちゃんが急に気弱なことを言い出したので、

なぁに真奈美ちゃんならきっと大丈夫だよ、
それにね、いいお守りがあるから、
これをつけるといいよ。
そういってオイラは、
手作りのイヤリングを渡した。

実はオイラの店でも、
ハンドメイドのアクセサリーの材料を買いに来られる
お嬢さんたちが何人かおられる。

ハンドメイドのアクセサリーはとても流行っていて、
材料の鳥の羽を入手するのに、
オイラの店のマテリアルは
ちょうど良いらしい。

そんなお嬢さんたちに触発されて、
オイラもいくつか
ハンドメイドのイヤリングやピアスを作ってみた。

季節にあわせて、
ウーリーバッガーをピンクにアレンジして
作っておいたイヤリング、
いまならきっとお役に立つかも。

ウーリーバッガーはね、
星の数ほどあるフライの中で、
一番強い力があるんだよ。
これは桜をイメージしてピンクで巻いたけれど、
これをつけておけば、
ウーリバッガーの強い力を身にまとうことができる。
今年の桜もきっと見ることができるよ。

そう言って真奈美ちゃんの手に、
手作りのイヤリングをそっと乗せた。

『へぇ、可愛いね。気に入ったよ、ありがとう』
そういって真奈美ちゃんは、
嬉しそうにそのイヤリングを眺めていた。
ただ疲れていたのか反応はそれだけで、
しばらく車内は話題もなく、
時間がゆっくりと過ぎていった。

また眠ったのかなと真奈美ちゃんの方を見ると、
ちゃんと目は明いているが、
なんだか想いつめた表情をしている。

ウーリーバッガー、あまり気にいらなかったのかな。
ちょっと心配になったが、
何かいって静寂を破る気にもなれず、
そのまま黙って運転を続けていると、

やがて真奈美ちゃんは重い口を開いて、
絞り出すようにこういった。

『あたしを抱いてくれませんか?』

エェッ、抱くっていったいどういうこと?
夜になってちょっと寒くなってきたから、
抱っこしてやればいいのかな?
それとも…

突然のことで頭が回らないオイラを無視して、
真奈美ちゃんは続けてこういった。

『あたしはもうすぐ30歳になるの。
でもこの年になっても彼氏の一人もいないのよ。
大学を出てからすぐに働き始めたのだけれど、
両親が二人ともガンでね。
看病に追われる毎日で彼氏を作る暇もなかったの。』

続けて真奈美ちゃんは、
誰でもいいから想いをぶつけるようにこう言った。

『うちは癌の家系で両親は二人とも旅立った。
だから、たぶんあたしもダメだと思う。
でも、このまま、男を知らずに死んでいくなんて、
本当に残念だわ。
ぜひアタシを女にしてください。』

ここまでいうと真奈美ちゃんは、
自分の言ったことにびっくりしたのか、
そのまま押し黙ってしまった。

さて、どうしたものか?
オイラも男だから、
女の子から誘われてイヤとはいえない。

でも60過ぎのこんなジジィが、
真奈美ちゃんの初めての男では彼女が気の毒だ。
それにひょっとして、
後で怖い男が出て来ても困るし…

いろんなことが頭をよぎる。
さて、どうしよう?

そっと助手席のみなみちゃんの様子を伺うと、
返事を待っているそぶりだ。

しょうがない、ここで逃げてはいけない。
彼女に恥をかかせてもいけないので、
パッと脳裏に閃いた言葉を口にした。

ねぇ、真奈美ちゃん。
とりあえず桜の季節まで頑張って、
桜が咲いたら花見に行こうぜ。
花見に行って綺麗な桜を見ることができたら、
その時には…。

そういうと真奈美ちゃんは安心したのか、
そのまますやすやと眠ってしまった。
よほど疲れていたのだろう。

’でその後はどうなったんだ?’

オイラが回想を終えるのを待っていたかのように
悪魔がつっこんできた。

うん、それがね…

(続きます)

◎悪魔の囁き、目次はこちら

-お断り-
この話はすべてフィクションで、
たまたま見た夢を綴っただけのことです。
外出をオススメしているわけではありませんので、
念のため。
なお、この物語は当分の間、続きますが、
すべて実在の人物、会社、組織とは関係ありません。
どうぞご承知おき下さい。